住職日記

仏教の心に学ぶ

台風も去り、本堂でおつとめが終わって早朝の境内を見わたすと、日差しが暖かく桧皮葺の本堂や三重塔の屋根にそそぎ、昨日のきつい雨を拭うかのように屋根から水蒸気があがっています。 またもみじの葉が雨水で照り輝き、小川のせせらぎが軽やかに響いています。自然のさまざまな営みを見つめながら、この瞬間にもテロや戦争で命を奪い合い、貴重な自然を破壊し合う人々のいることを思い、改めて心が曇ります。 たったひとつしかない命を、一度しかない人生を、二度と帰らないこの一瞬を、他人との争いによって費やすことの無意味さを思わずにはいられません。 人間にとっての最大のそして生涯のテーマは「生」と「死」を明らかに見極めることではないでしょうか?

 

確実に終わりの時が巡ってくるという事実を前提として、限りある命を如何に生きるべきかについて説いているのが仏教であります。

 

お釈迦様以来、数多くの祖師、先徳たちは、このテーマにそって深い迷いに苦しみ、飽くなき欲望にさいなまれる私たちの心を癒し、永遠のやすらぎへ導くために、さまざまな教えを示し、修行という行動実践を説いて下さっております。 仏教はその意味で、決して亡くなった人が相手の宗教ではなく、現在生きている私たちに向けられた教えであり、人づくり心づくりのための教えであります。

 

宗祖伝教大師最澄様はこうした仏教の願いを踏まえて、国家有為の人材を育成することを自らの悲願として比叡山を開かれ、日本仏教を代表する各宗、各派の開祖といわれる方々が、ここから巣立っていかれたのであります。 それゆえ比叡山は日本仏教の母山といわれるのであります。

 

また伝教大師は「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という人づくりの制度の序文で「一隅を照らす」ということを言われております。 「一隅を照らす」とは我欲を離れ、捨身となって社会のために力を尽くすような「忘己利他(もうこりた)[自分の事よりも他人の利益を優先する事]」の心を実践し、その場になくてはならない人物を目指すことであります。 自らの人間性を磨きながら、地域や社会をリードするような存在となることを目標として励むべきであると、伝教大師は説かれているのであります。

 

また、そういう人物になるために仏教は「脚下照顧(きゃかしょうこ)」の実践を説いています。 すなわち、常に足もとを照らして自らを深く顧みているか、大地をしっかり踏まえて立っているか、大道を堂々と歩んでいるか、自分と人々に対して恥ずかしくなく生きているか等、反省を怠ってはならないということであります。

 

小さな我にとらわれ、煩悩という迷いに自分を見失い、忙しさにぬくもりを忘れがちな私たちに対して自らを静かに見つめ、振り返る謙虚なゆとりを大切にすべきであると教えているのであります。 科学の進歩と物質的な豊かさの中で人間は先人達が培ってきた貴重な心を失ってしまったといわれております。


今一度、生きとし生けるものすべての幸せを願いとした仏教の心に学びながら自分自身を育て、他をいとおしみ、思いやる慈悲心、すなわち、愛の豊かな人間性を目指してゆきたいものであります。

 

 

合掌

(湖東三山・西明寺住職 中野 英勝)