住職日記

心掃くべし

九月に入り、朝夕過ごしやすくなり、西明寺も境内一面に秋の気配を感じられるようになりました。境内の掃除をしながら、私はまだ比叡山で修行を始めたころ、師僧からいわれた「心掃くべし」という言葉を思い出しました。

 

私の師僧は比叡山の浄土院という場所で十二年間の籠(ろう)山行をした律僧です。そして、浄土院という場所は、比叡山を開かれた伝教大師最澄上人の御廟所で、比叡山第一の聖域であるため、定められた修法の合間に落ち葉一枚もとどめず、草一本も生えないように徹底した掃除を行うことを日課にしているので、特に掃除が厳しく「掃除地獄」といわれております。掃除地獄とは厳しい修行を恐れた昔の僧侶(りょ)たちが、この名をつけたといわれております。

 

その掃除地獄の浄土院で修行を積んだその師僧に、掃除をしているときに「心掃くべし」とこのようにいわれたのですが、かけだしの小僧であった私は、まだこの時には師僧のこの言葉の意味がよく理解できませんでした。掃除は昔から寺院で、一掃除、ニ看勤(かんきん=おつとめをすること)、三学問といわれる程、大切な修行と位置づけられております。

 

また一般家庭でも掃除と言えば、どこの家庭でも毎日なさるあたりまえの仕事ですが、これが案外怠りがちになるものですが、この掃除について仏教では五つの功徳があると教えています。掃除をきれいにすると、一には、身も心も清浄になる。二には、自分だけでなく他人の心も清浄になる。三には、神さま仏さまが喜んで下さる。四には、人相がよくなる。五には、幸福がめぐってくると言います。早起きをして内外の掃除をすると、心がすがすがしくなり朝の食事もおいしく頂けます。また他家(よそ)さまを訪問した時も、きれいに掃除がしてあると「きれいだなあ」と感じるとともに、身がひきしまる思いがします。

 

部屋や庭の掃除に限らず、入浴して身体の垢(あか)を洗い流すのも衣類を洗濯してよごれを落とすのも、みな清潔のためのクリーニングでありますが、同時に心のよごれ、煩悩(ぼんのう)を洗い清めることが重要であります。この「心掃くべし」という言葉は、ただ単に室内や屋外をきれいに整えるための行為というだけでなく、まさに自らの心を清めるために実践であるといえます。また現実の雑事に惑わされて、知らず知らずのうちに心に積もってゆく塵(ちり)や垢や汚れを清めるために、日々精進を怠ってはならないと戒め、反省を促しているともいえます。

 

毎日のニュースで見たり聞いたりする社会の出来事の多くが、仏教でいう三毒という煩悩の貪欲(とんよく=むさぼり)、瞋恚(しんに=いかり)、愚痴(ぐち=おろかさ)からくるものであり、すべて人間のエゴに帰するように考えられます。なかなか掃除ぐらいではきれいに取れませんが、この「心掃くべし」という言葉を念頭において掃除をしたならば、自分の心を洗い清めるだけではなく、他人の心、また社会の環境までも浄化されるのではないでしょうか。

 

合掌

(湖東三山・西明寺住職 中野 英勝)