住職日記

我と我のぶつかり合い

世界各国の人々の努力と願いもむなしく、イラクでついに戦争が始まってしまいました。テレビや新聞などのメディアを通して刻々と報じられる戦況に目を注ぎ耳を傾けているのですが、そこでは人の命が確実に奪われていっているのだということを想像するにつけ、それに対して憤りを覚えるとともに、何も出来ずに傍観しているだけの己の無力さに悲しみが込み上げてきます。

 

たとえどんな理由があるにしろ、どんな大義名分をかざそうとも、戦争はおろかな行為であることに変わりはありません。突き詰めてゆけば、それは単なる【我】と【我】のぶつかり合いでしかないとつくづく思います。

 

ある意味、人間の闘争心は動物的な本能であるといわれますから、人類が存在する限り、この地球から争いごとは決して無くならないかもしれません。しかし、人間は、本能をコントロールできる知恵という優れた特徴もまた持ち合わせています。それを考えると、戦争とは、人間であることを自ら放棄した愚かな行為であるともいえます。

 

人類の歴史を少し振り返れば、戦争はいつの時代も抵抗するすべを持たない一般大衆、とりわけ老人や女性、子どもといった社会的・体力的に弱い立場にある人々に最も大きな被害を及ぼし、そして、命じられるままに動くしかない最前線の兵士たちを悲劇のどん底に陥れることは、容易に理解できるはずであります。しかし、それでもなお過ちを繰り返してしまう人間とは、何と悲しい生き物なのでしょうか。

 

ここで、ひとりひとりが原点に返って思い出さなければならないことがあります。それは、私たち人間というものは、自然という深く大きな懐の中で、互いに助け合い、支え合い、そして、励まし合いながら、限りある命を活かし生きているということです。

 

しかし、知らず知らずのうちにそれを忘れてしまって、我を張り、独りよがりの言葉に走り、時に戦争というあまりにも愚かな過ちを犯してしまう私たち人間。そうした弱い人間であるからこそ、自らを振り返るゆとりや、他を思いやる大らかさが大切となるのではないでしょうか。

 

仏教ではこのことを「慈悲」という言葉で説いてます。宗祖伝教大師最澄上人は「山家学生式」の中に、「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」というお言葉を残されています。これは、かつてローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が来日された際のスピーチでの中で引用され、昭和六十二年に開催された比叡山世界宗教サミットの実現へのあしがかりとなったお言葉でもあります。俗に、「情けは人のためならず」などと申しますが、日々の暮らしの中で感謝の気持ちを忘れず、合掌の心を通して、自分のことよりも他人のために惜しみなく力を尽くせるような人になること、まずはそれを目指しましょう。そして、戦争のない世界の実現に向け励んで参りたいものです。

 

合掌

(湖東三山・西明寺住職 中野 英勝)