住職日記

洞察力

比叡山延暦寺一山「善学院」住職から湖東三山「西明寺」住職に転住職して20年余りの年月が過ぎましたが弟子が比叡山の行院で僧侶になる修行に入行したり比叡山麓の叡山学院で仏教学全般や天台教学を学ぶ姿を見て、自分の時と重ね合わせて、その時の師僧の考えや、やさしさ、大変さを少しは実感できるようになりました。

 

師僧は自分が小僧の時に師僧と一緒に食事をした事がなく、師僧の食事中は食事が終わるまでお給仕をさせられていたので、自分が師僧になったら弟子には早く食事を食べさせてやり、皆一緒に食事をすると決められていましたので、私は師僧や兄弟子達と一緒に食事をしていました。

 

このことから夕食は少し大変でした。食事も修行の一環なので食事中は私語なく静かに食べるのですが、食事が終わってごちそう様と言うか言わないぐらいから、今日一日のできごとについて師僧からいろんな説教を受けます。特に機嫌が悪い時は今日のでき事だけでなく前にも何回も注意された事が、くり返し、くり返し、思い出しては言われます。そして師僧の食事後の説教は、いつも最後に決まって『わしはお前らの応援団じゃ、わしの良いと思う所だけ手本にして、わしを踏み台にしていけ。いつもわしはお前らを応援している』でだいたい終わります。

 

師僧が席を立った後、兄弟子が今日の師僧の説教をうけた一番バッターはよく叱られたとか、二番バッターは要領が良いので、あまり叱られず褒められたとか言い始め、今度は自分が師僧のまねをして、師僧の事や弟弟子の事をとやかく言い出しますが、あまり気にせず皆知らん顔をしています。

 

今から考えますとその時の説教がなつかしく、また師僧と弟子一同そろって食事をしたく思いますが、師僧をはじめ殆どの弟子が他界していますので、それはかないません。また、師僧の説教の中の話に色々な人生の宝となるキーワードが潜んでおりましたが、その時は気がつかず、どうしてこういうことを言われるのかと腹立たしく思ったりもしていましたが、今、弟子をもって同じ境遇になると、なるほどと思うことがたくさんありますし、その時言ってもらった事がたいへん役に立っていることもあります。やはり良薬口ににがし、後悔先に立たずです。

 

私が比叡山で三年間の籠山行(満行すると比叡山の延暦寺一山の住職に推薦してもらえる)に入行しようか迷っていると(その当時、腰が椎間板ヘルニアになっていて満行できるかたいへん心配であった)師僧はそれを察知して、上杉鷹山(ようざん)公の言葉を引用して『為せば成る。為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり(人が何かを成し遂げようという意思を持って行動すれば、何事も達成に向かうものである。ただ待っていても、何も行動を起こさなければ良い結果には結びつかない。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ)じゃ、人生不言実行、行不退じゃ、やるだけやってみぃ、できんかった事など考えでもええわ』と言われました。師僧の思いにむくいる為にも、私はこの時、比叡山での三年間の籠山行に入行する決意を固めたのです。今思えば、この時の師僧の励ましによって固めた決意が私の人生を大きく変えたと思います。

 

この比叡山での三年間の籠山中の行、90日間、お堂の中で不眠(みん)不臥(が)(眠らない、体を横たわらない)でずっと坐りぱなしでいる「常坐三昧(ざんまい)行」や比叡山の峯々を毎日七里半(30キロ)を巡拝して回る「百日回峯行」、諸仏の修法する「諸尊法修法」、お経を断つことなく読み続ける「不断経」、行院での行院生の指導助手、在家の修行道場である居士林(こじりん)での指導助手、宗祖大師が今も生きておられるがごとくお給仕をする浄土院での助番等の中でたくさんの心の宝や自信を得る事ができました。今思えば師僧は私が籠山行をする事によって比叡山でたくさんの事を学び、私にとってたいへんプラスになる生き方、考え方を身につける事ができ、大きく成長することが分かっていたのだなあと思います。なぜならば、師僧は私より4倍も長く比叡山で籠山をした12年籠山行の律僧で、比叡山で「掃除地獄」とうたわれた浄土院の侍真(じしん)僧であったからです。

 

侍真(じしん)とは、伝教大師の真影(しんえい)に侍(はべ)るという意味であり、大師が今も生きておられるがごとく12年間一日たりとも欠かすことなくお給仕を勤め、定められた勤行や修法を実践し続ける僧侶のことです。また侍真僧になるのはまず、三千仏礼拝による好相行(五体投地で三千の仏に礼拝をして仏を感得するまで行い、仏を感得したらその体験を侍真に報告してその体験が本当に仏を感得したものと認められたと時、はじめて新たに侍真と認められる)を果たした後、大乗菩薩戒を自誓受戒して初めて侍真として、12年籠山に入ることが認められます。


人のやさしさや考え方は目に見えないので、分かりづらいものですが、時がたってその人と同じ立場になって分かることもあります。毎日おつとめの中で、そっと師僧のことを思い、手を合わす今日です。

 

 

合掌

(湖東三山・西明寺住職 中野 英勝)