住職日記

物を大切にする心

私の知人に毛だまのたくさんついたつぎはぎだらけのベストをいつも好んで着ている人がいます。
かなりの時代ものでもう十数年は着ていると思われるものであります。お世辞にも似合っていると言えない格好なので最初のうちは、 なぜその一着のベストに執着しているのか私には理解できませんでした。


本人に聞くのもしのびないのである日、 妹さんにこっそり聞いてみたところ、「亡くなった母が作ったベストでたいそう母が気に入っていたようで、兄が着ないときには自分で着たりしていました」と 答えてくれました。母の心がこもったベストであったのです。私は胸にジーンとくるものがありました。


そのことをいまだ本人とは 話しておりませんが、母の想い出を着ることによって心が暖まるのであろうと思われます。どんなにすり切れても、いつまでも着ていてほしいと 私は思うのであります。

 

このことと、物を大切にしない現代の風潮とは無縁ではないと思うのであります。
確かに現代は物が豊かになり、一つの物を何年も使う必要はなくなりました。
修理などするよりも新しい物を購入した方が手っとり早い世の中になりました。
この人がベストを大切にすることとどんな関係があるのかと思われる人もいるかと思いますが、 心が通っているからこそ、いつまでも大切にしたい気持は、大事な事であると思います。物にも命があります。
その命を大切にする心が、現代人には失われていないでしょうか。

 

私の師僧(中野英賢和尚)が、生前座ぶとんの話しをして下さったことがありました。
自分が比叡山の12年間の籠山行に入る時、自分の師僧の叡南祖賢和尚に一枚の座ぶとんをいただいたのであります。
「おい、英賢。これをやる。しっかり行にはげめよ。」
それだけ言って和尚は自分が今座している座ぶとんをよこしたのであります。その時は自分は実に不快であり、 いやな思いであったそうです。新しい座ぶとんがいくらでもあるというのに、なにも使い古したものをくれなくても いいではないかと思ったそうです。しかし何といっても和尚は「行」の総帥であり、「持って行け」といわれるものを断る わけにもいかず、また「もっと新しいものを…」とねだることもできなかったそうです。そして籠山行に入ってから、 その座ぶとんに座りつづけたそうです。
二年も座れば、隅の方がすり切れてきて、大切に使ったつもりでも、物にもやはり寿命があるものです。
「だいぶ古くなりましたな」
「うん、古くなったねぇ」
「ぼちぼち取り替えましょうか」
「和尚の贈り物だからもう少し…」
周囲の人とそんな会話をしていた時、ハッと気がついたのだそうです。突然和尚の心が自分の心に密着したそうです。
「持って行け」と放り出した和尚の意が二年も経てわかったそうです。その時自分はまだまだ愚僧であったと感じたそうです。

 

伝教大師の遺戒に
「初め如来の室に入り。次に如来の衣を著し、終りに如来の座に座せよ」とあります。
仏道用心の教えであります。そこまで来て自分は和尚の励ましと暖かい心を知ったのであると言われました。
「如来の座」この座ぶとんこそ、その如来の座ではないか。仏様の座られる蓮台ともいえるものではないのか。
和尚はもういない。しかし、一枚の座ぶとんを敷けばその上に和尚がよみがえるのである。自分にとって終生とり替えることの できない座ぶとんであるとこういう内容のことでありました。
次元は異なるかもしれませんが、知人のベストも私の師僧の座ぶとんの話しも究極は一致したものであろうと思います。

 

一つも「物」に人の心が通い合う。その「物」を謀体に人と人との心の結びつきがある。物質文明社会がますます進行し、 自己中心的で人の心を理解することを失い、自然を愛する心、また物を大切にする心を失いつつある今日、もう一度人間性を培う ことを心静かに振り返る時間を日々の合掌を通して大切にしてゆきたいものであります。

 

 

合掌

(湖東三山・西明寺住職 中野 英勝)