住職日記

聞き上手

師走を迎え、今年は自分自身でどういう年であったかを振り返りながら、新聞を読んでおりましたら、中国の孔子の「六十にして耳順う(したがう)」という言葉が目に止まりました。一般によく知られている「三十にして立つ」とか「四十にして惑わず」とか「五十にして天命を知る」とかの次に来る言葉でありますが、「六十にして耳順う」とは、孔子自身が老境に入って初めて、人の言葉に素直に耳を傾けられるようになったことを表したものであります。

 

好むと好まざるとにかかわらず、他人とのかかわり合いの中で生きていかなければならない私たちでありますが、偉大な思想家であった孔子ですら、人の話を謙虚に聞けるようになるまで、六十年もかかったという事実は、それがいかに難しいものであるかを象徴しているといえます。

 

さて現実の私たちは、いかがでありましょうか?一般的に大別すると、年を重ねるに従って次第に角がとれて、円満柔和な老人になってゆく人と、年ごとに頑固になり、ますます依怙地(いこじ)にひがみっぽくなってゆく老人とに分けられるようであります。どちらを望むかは言うまでもないことでありますが、なかなか望み通りにいかないのが現実で、人様の話に真心をもって耳を傾け、相手の主張なり心を正確に理解し、その人を大らかに包み込むというよりも、相手の話を自分流に味付けして曲解したり、あるいは自分の考えを相手に押しつけて嫌われたりの連続で、いよいよ自分で自分を貧しく孤独にしてしまう結果になりがちなものであります。

 

すべては「我」という迷いのなせる業でありますが、俗に話し上手は聞き上手などと言われますように、主張する前に聞くという姿勢を育ててまいりたいものであります。

 

以前、男女合わせて三十人ほどの老人クラブの人たちに、話をさせて頂く機会がありました。その時、特に印象深いことがありました。それは、子どもか孫ぐらいの年齢の私の話を、皆さん実に熱心に聞いて下さり、丹念にノートを取っておられたことでした。六十年以上もの長い人生の中で体験し学びながら蓄積してきた智恵(ちえ)は、私などは比較にならないほどに豊かなものであろうことは、容易に想像がつきますが、それにもかかわらず、なお謙虚に耳を傾け、ノートにメモしておられる姿は素晴らしいものでありました。

 

法句経というお経の中に「聞くこと少なき人は、かの犂(すき)をひく牡牛のごとく、ただ老ゆるなり。その肉は肥ゆれど、その智恵は増すことなからん」と書かれています。これは世の中のさまざまなことに、積極的に目や耳を傾けて、自らの心を高めることの大事さを説いたもので、いたずらに年を重ねることのないよう戒めた教えであります。

 

いろいろと毎日慌ただしく、せちがらい世の中ではありますが、常に相手の話をよく聞く「聞き上手」な自分になるよう、精進を重ねてまいりたいものであります。

 

合掌

(湖東三山・西明寺住職 中野 英勝)